ヒト受精胚ゲノム編集の現状
ゲノム編集ベビーのニュース
2018年に中国でヒト受精胚のゲノム編集を行い、双子の赤ちゃんが誕生したことは記憶に新しいのではないか?報道を耳にし、科学技術の凄まじい進歩に驚きつつも漠然とした恐怖を感じた方も多いと思う。このように受精卵の段階で遺伝子を操作し誕生した子どもを”ゲノム編集ベビー”と言うこともあるそうだ。この研究に対し世界各国の団体からは批判に値する声明が相次いで出された。既に定められているヒト受精胚のゲノム編集のルールを大きく逸脱しただけでなく、倫理的に大きな問題があるからである。では既に定められたルールとはどのようなものなのであろうか。
本記事ではヒト受精胚のゲノム編集に関する研究や臨床利用の現状について述べる。はじめに日本の現状について言及し、その後世界の現状について言及する。
日本のヒト受精胚ゲノム編集の現状
そもそも、ヒト受精胚でのゲノム編集を用いた基礎的研究や臨床利用は行って良いのであろうか?
結論から述べると条件付きで基礎的研究は認められており、臨床利用は認められていない。(2021年5月27日時点での情報)
※本記事では「「基本的考え方」見直し等に係る報告書(第一次)~生殖補助医療研究を目的とするゲノム編集技術等の利用について~」[1] に従い基礎的研究と臨床利用を次のように定義する。基礎的研究は、ヒトや動物にゲノム編集技術等を用いたヒト受精胚を移植しない(個体産生につながらない)研究。臨床利用は、ヒトや動物にゲノム編集技術等を用いたヒト受精胚を移植する(個体産生につながる可能性が有る)利用とする。
大前提として日本ではヒト受精胚の取り扱い基本原則が下記のように定められている。以下「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」(平成16年7月23日総合科学技術会議)より抜粋。[2]
第2.ヒト受精胚
2.ヒト受精胚の位置付け
(3)ヒト受精胚の取扱いの基本原則
ア 「人の尊厳」を踏まえたヒト受精胚尊重の原則
既に述べたとおり、「人」へと成長し得る「人の生命の萌芽」であるヒト受精胚は、「人の尊厳」という社会の基本的価値を維持するために、特に尊重しなければならない。したがって、ヒト胚研究小委員会の報告に示されたとおり、「研究材料として使用するために新たに受精によりヒト胚を作成しないこと」を原則とするとともに、その目的如何にかかわらず、ヒト受精胚を損なう取扱いが認められないことを原則とする。
イ ヒト受精胚尊重の原則の例外
しかし、人の健康と福祉に関する幸福追求の要請も、基本的人権に基づくものである。このため、人の健康と福祉に関する幸福追求の要請に応えるためのヒト受精胚の取扱いについては、一定の条件を満たす場合には、たとえ、ヒト受精胚を損なう取扱いであるとしても、例外的に認めざるを得ないと考えられる。
ウ ヒト受精胚尊重の原則の例外が許容される条件
イに述べた例外が認められるには、そのようなヒト受精胚の取扱いによらなければ得られない生命科学や医学の恩恵及びこれへの期待が十分な科学的合理性に基づいたものであること、人に直接関わる場合には、人への安全性に十分な配慮がなされること、及びそのような恩恵及びこれへの期待が社会的に妥当なものであること、という3つの条件を全て満たす必要があると考えられる。また、これらの条件を満たすヒト受精胚の取扱いであっても、人間の道具化・手段化の懸念をもたらさないよう、適切な歯止めを設けることが必要である。
平成31年4月1日に制定された「ヒト受精胚に遺伝情報改変技術等を用いる研究に関する倫理指針」[3]によると、胚の発生・発育・着床に関するもの、ヒト受精胚の保存技術の向上に関するもの、その他生殖補助医療の向上に資する研究であればヒト受精胚に遺伝情報改変技術等(CRISPR/Cas9などに代表されるゲノム編集技術)を用いる基礎的研究が認められている。ただし次に述べる条件を守る必要がある。研究に使用する受精胚は体外受精などの生殖補助医療に用いる目的で作成されたヒト受精胚の内、使用される予定がなくなったものである必要がある。さらに受精後14日以内(凍結保存期間を除く。)のものと規定されている。またこの研究に用いたヒト受精胚は、人または動物の胎内への移植は禁止されている。現行の指針だと、ヒト受精胚をゲノム編集して子宮に戻すことは禁止されているため、いわゆる”ゲノム編集ベビー”も作成してはならないということになる。
日本のヒト受精胚ゲノム編集の今後
次に現在指針として追加が議論されている内容について言及する。なお、下記に示す内容は令和元年6月に行われた総合科学技術・イノベーション会議でまとめられた「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」見直し等に係る報告(第二次)[4]に基づくものである。(2021年5月27日時点での情報)
この報告書によると、ヒト胚の人または動物への胎内移植、疾患関連目的以外の研究(エンハンスメント等)を容認しないことを前提とした上で次に示す基礎的研究を容認するか否かについて検討されている。
1つ目は余剰胚にゲノム編集技術等を用いる遺伝性・先天性疾患のための研究である。今まではヒト受精胚を使う基礎的研究は生殖補助医療が目的である場合のみ許可されていたが、遺伝性・先天性疾患が目的の研究でも使用出来るようにするという試みである。
2つ目は新規胚を使用しゲノム編集を行う基礎的研究である。上記に述べたように現在は生殖補助医療で”余った”ヒト受精胚に対してのみゲノム編集を行う研究が許可されていたが、新たに胚を作成しゲノム編集を用いた研究に使用することが検討されている。
研究目的でのヒト受精胚の作成については、上記に記した「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」に基づき生殖補助医療研究を目的とするもののみ容認されている。その作成したヒト受精胚に対してゲノム編集を施し研究をすることは慎重に検討される必要があるとして余剰胚にのみ使用が限定されていた。しかし、生殖補助医療の後に生じた余剰胚は、受精から一定の時間が経過しているため、受精初期の状態を把握することは困難であることが課題として挙げられていた。また、ヒト受精胚の初期での変化は観察だけでは機能、形質、その後の変化への影響等を把握することは困難なことも多く、ゲノム編集技術等を用いることによって解明されることも多いと想定されている。そのため、今回新規胚に対するゲノム編集技術を用いた研究の容認に関して検討されているのである。この場合研究目的は、生殖補助医療研究、難病等遺伝性疾患研究及びその他の疾患研究(がん等)に絞られる方向性で議論が進んでいる。
現時点での「ヒト受精胚に遺伝情報改変技術等を用いる研究に関する倫理指針」には法的な拘束力はなく、破った際のペナルティも大きなものではない。そのため、この報告書では人または動物の胎内移植に関して、法的規制を含めた制度的枠組みの検討を関係省庁に求める事が記されている。
ヒト受精胚ゲノム編集の世界の動向
次にヒト受精胚ゲノム編集の基礎的研究の世界の動向を紹介する。日本以外の国では早くからヒト受精胚にゲノム編集を施した基礎的研究が行われている。
2015年には中国の中山大学でヒト受精胚へのゲノム編集効率の確認や遺伝性難病予防を目的に研究が行われている[5]。2017年にはアメリカのオレゴン健康科学大学で肥大型心筋症患者の精子と正常な卵子から新たに受精胚が作成された[6]。また、受精胚を作成する際にゲノム編集を行うことによる修復効率化の検証も行われた。同じ年にはイギリスのフランシス・クリック研究所で受精胚や胚性幹細胞で特異的に発現している遺伝(OCT4)を欠損させて、受精胚の発生における役割を解析する研究が行われた[7]。こちらは生殖補助医療を目的としていた。[8]
世界各国のヒト受精胚のゲノム編集による臨床利用に関しても簡単に述べる。次の内容はゲノム編集技術等を用いたヒト受精胚等の 臨床利用の現状について(令和元年8月21日)[9]と厚生科学審議会科学技術部会 ゲノム編集技術等を用いたヒト受精胚等の臨床 利用のあり方に関する専門委員会 議論の整理 (令和2年1月7日)[10]に基づくものである。(2021年5月27日時点での情報)アメリカ、ドイツ、イギリスでは容認出来ないとの見解が出されている。ただし、アメリカでは重篤な疾患の場合、イギリスやドイツでは特定の疾患の場合、様々な条件をクリアしたうえで例外的に許可されている。フランスや中国に至っては禁止されている。
今後の課題と展望
本記事冒頭で紹介した中国のゲノム編集ベビーはヒト受精胚ゲノム編集を臨床利用した例である。当初の目的ではHIV(ヒト免疫不全ウイルス)の耐性を持たせた子供を誕生させることだったと言われている。双子の両親の一人がHIV感染者、もう片方が未感染であり子供に感染させないためにゲノム編集を選択したそうだ。しかし、HIVの親から子への感染を防ぐ方法は既に複数存在し、わざわざゲノム編集を選択する必要が無かった可能性がある。臨床利用は中国国内でも認められていないのはもちろん、アメリカなどの特定の疾患でのみ臨床利用を認める場合にも該当しない可能性が高いだろう。
科学技術は日に日に進歩している。それに対し、一般市民の理解や法律などの整備が追いついていないのが日本の現状である。また、生命に対する倫理観についても幅広くディスカッションする必要があるように感じる。
上記でも述べたが現時点で日本においてはヒト受精胚ゲノム編集に関する法律はなく、存在するのは指針である。法律ではないため、仮に破ったとしても厳しい罰則などはない。多くの人が手軽にゲノム編集を行えるようになった今、法律を制定する必要もあるのではないかと考える。ゲノム編集は人々にとってより良い選択が出来るために使用されるものであって欲しいと願う。
※この記事は2021年5月27日に作成されたものです。ゲノム編集などの科学技術に関する法律や指針は常にアップデートされていくため内容に一部違いが出る可能性がございます。
※セツロテックでは、2021年5月27日時点でヒト胚の利用事例はございません。
(文責:Y.T)
参考文献
[1] 「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」見直し等に係る報告(第一次)
~生殖補助医療研究を目的とするゲノム編集技術等の利用について~(平成30年3月29日総合科学技術・イノベーション会議)
[2] ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方(平成16年7月23日 総合科学技術会議)
[3] 「ヒト受精胚に遺伝情報改変技術等を用いる研究に関する倫理指針」の制定について(平成31年4月1日文部科学省)
[4] 「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」見直し等に係る報告(第二次)~ヒト受精胚へのゲノム編集技術等の利用等について~(令和元年6月19日 総合科学技術・イノベーション会議)
[8] 第123回 生命倫理専門調査会 新規作成胚とゲノム編集研究資料 (令和2年7月31日)
[9] ゲノム編集技術等を用いたヒト受精胚等の 臨床利用の現状について(令和元年8月21日)
[10] 厚生科学審議会科学技術部会 ゲノム編集技術等を用いたヒト受精胚等の臨床 利用のあり方に関する専門委員会 議論の整理 (令和2年1月7日)